婚約の儀のためにメイクを施している最中、誤って筆を一本落としてしまった。途端に目をお開けになった殿下からジロリと刺すような視線をいただいてしまい、体の芯まで凍りつきそうになる。
「失礼いたしました」
それには答えず黙って目をお閉じになり、とりあえずはホッと胸をなでおろす。殿下どうなさったんですか?怖すぎますよ。
眉間の辺りに神経を集中させて微動だにしない様子は、一見無の状態のようにも見受けられますが、これは殿下が怒りに打ち震えている時のもの。この私も滅多に遭遇できない・・・いえ、こんなに激しいのは初めてかもしれない。もちろん、どうしてですか?なんて、いつものように話しかけることなんて絶対的に不可能。
「終わりました」
とお伝えしても、そのまま目を開けられることなく、軽い会釈だけ。「失礼いたします」と思わず、部屋を逃げ出してしまった。もう、いやですよ。八つ当たりされたわけでもなんでもないけど、その場にいることには耐えられなかった。
「もう終わりました?」
廊下で待っていると加藤さんがいらしたけど、私はまだ頷くだけで精一杯。
「すみません、ご迷惑をおかけしてしまったようで」
いつも通りに仕事を遂行しているようにしか見えない・・・どうしてそう平然としていられるのかしら。
「明日もあのような感じかもしれませんが、許してください。今度改めてお詫びしますので」
改めてお詫びだなんて・・・、別に構わないんですよ。殿下がそれほどまでにお怒りになるのは、それ相応のことがあったからでしょう。普段はとても温厚でいらっしゃいますからね。
一旦部屋に入って行かれた加藤さんに率いられ、正装に身を包んだ殿下が目の前を通って行かれた。敬礼していたのでお顔は拝見できなかったけど・・・したくなかったけど、加藤さんと言葉を交わしていらしている後ろ姿はいつもとそうお変わりがない。・・・さすが殿下ですね。
でも私は寿命が縮んだような気がしましたよ。本当に明日も・・・なのでしょうか?